父と母が生きた戦争の時代

父と母が生きた戦争の時代


戦後70年、平和への思いを新たにしている方も多いと思います。戦争か平和か、自衛隊を海外の戦争に参加させる安全保障法制が国会で審議されています。日本共産党の2人の議員は、平和への思いを手記にしました。お読みいただければ幸いです。

父と母が生きた戦争の時代

父が生きていたら97歳、母が生きていたら90歳だと思う。両親は2人とも戦争をさまざまな形で体験してきた世代だった。父は中国戦線で斥候という任務に就いていた。斥候というのは偵察隊のことだ。
「何人中国人を殺したか分からない。女も子どもも」
父は生前、そう語っていたという。戦争が終わったとき20歳だった母には許嫁がいたが、こちらは終戦間際に沖縄の海で戦死している。
美里町長谷宮、戦後ここで父と母は出会い、結婚した。父は土木作業員、母は小学校の教員だった。一家は母が新城小学校に転勤になったことを機に新城に家を借りて引っ越しした。
雨が降ると土木作業員には仕事がない。雨の降る日、父が薄暗い部屋で酒を飲み、軍歌を歌っていた記憶がある。父の歌う「麦と兵隊」は物悲しかった。
「『すまぬすまぬ』を背中に聞けば、『馬鹿を云うな』とまたすすむ」
記憶は雨と重なっている。兄弟3人は部屋の隅で固まっておびえていた。機嫌が悪いと茶碗を投げつけたり、母に暴力を振るう父の記憶にも雨が絡みついている。
父は、酒で体を壊し長い間入院した。小学校1年生になった6月、退院してきた父は、酒を飲みに外に出て、夜中に帰ってきて、大いびきをかいてそのまま死んでしまった。脳溢血だった。戦争が終わって21年が経とうとしていた。荒々しい暴力親父。父の暴力には、戦争が染み込んでいた。酒を飲み暴れても振り払うことのできなかった父の体験とは何だったのだろうか。

戦争反対への思い
戦争に反対し主権在民を貫いた日本共産党の存在を知ったのは、高校3年生のときだった。高校を卒業した3月に日本共産党に入党し、歴史を学び、戦争や原爆のことなどを知るたびに、父や母が生きた時代への思いが深くなった。戦争反対を思うとき、胸の中には父や母のことが重なってくる。

決意を言葉に
戦争をしないはずの日本で、戦争反対の運動に取り組まなければならなくなった。「戦争なんて起こらないよ」という言葉の裏で戦争が準備されている。安全保障法案や自衛隊の具体的な作戦を調べていくと戦争準備の事実が吹き出してくる。法案に反対している人々が、法案の中身を語り、可決したい人々が法案の中身をごまかしている。
日本国憲法を守ることは、平和を守るひとすじの道。憲法は70年近く経っても新しい。真理は古くならない。戦争しない国のまま戦後がずっと続きますように。祈りを胸に決意を言葉に。

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