Browsed by
年別: 2015年

父と母が生きた戦争の時代

父と母が生きた戦争の時代


戦後70年、平和への思いを新たにしている方も多いと思います。戦争か平和か、自衛隊を海外の戦争に参加させる安全保障法制が国会で審議されています。日本共産党の2人の議員は、平和への思いを手記にしました。お読みいただければ幸いです。

父と母が生きた戦争の時代

父が生きていたら97歳、母が生きていたら90歳だと思う。両親は2人とも戦争をさまざまな形で体験してきた世代だった。父は中国戦線で斥候という任務に就いていた。斥候というのは偵察隊のことだ。
「何人中国人を殺したか分からない。女も子どもも」
父は生前、そう語っていたという。戦争が終わったとき20歳だった母には許嫁がいたが、こちらは終戦間際に沖縄の海で戦死している。
美里町長谷宮、戦後ここで父と母は出会い、結婚した。父は土木作業員、母は小学校の教員だった。一家は母が新城小学校に転勤になったことを機に新城に家を借りて引っ越しした。
雨が降ると土木作業員には仕事がない。雨の降る日、父が薄暗い部屋で酒を飲み、軍歌を歌っていた記憶がある。父の歌う「麦と兵隊」は物悲しかった。
「『すまぬすまぬ』を背中に聞けば、『馬鹿を云うな』とまたすすむ」
記憶は雨と重なっている。兄弟3人は部屋の隅で固まっておびえていた。機嫌が悪いと茶碗を投げつけたり、母に暴力を振るう父の記憶にも雨が絡みついている。
父は、酒で体を壊し長い間入院した。小学校1年生になった6月、退院してきた父は、酒を飲みに外に出て、夜中に帰ってきて、大いびきをかいてそのまま死んでしまった。脳溢血だった。戦争が終わって21年が経とうとしていた。荒々しい暴力親父。父の暴力には、戦争が染み込んでいた。酒を飲み暴れても振り払うことのできなかった父の体験とは何だったのだろうか。

戦争反対への思い
戦争に反対し主権在民を貫いた日本共産党の存在を知ったのは、高校3年生のときだった。高校を卒業した3月に日本共産党に入党し、歴史を学び、戦争や原爆のことなどを知るたびに、父や母が生きた時代への思いが深くなった。戦争反対を思うとき、胸の中には父や母のことが重なってくる。

決意を言葉に
戦争をしないはずの日本で、戦争反対の運動に取り組まなければならなくなった。「戦争なんて起こらないよ」という言葉の裏で戦争が準備されている。安全保障法案や自衛隊の具体的な作戦を調べていくと戦争準備の事実が吹き出してくる。法案に反対している人々が、法案の中身を語り、可決したい人々が法案の中身をごまかしている。
日本国憲法を守ることは、平和を守るひとすじの道。憲法は70年近く経っても新しい。真理は古くならない。戦争しない国のまま戦後がずっと続きますように。祈りを胸に決意を言葉に。

わだつみ像と姉の死

わだつみ像と姉の死


戦後70年、平和への思いを新たにしている方も多いと思います。戦争か平和か、自衛隊を海外の戦争に参加させる安全保障法制が国会で審議されています。日本共産党の2人の議員は、平和への思いを手記にしました。お読みいただければ幸いです。

わだつみ像と姉の死

私はもうすぐ65歳になる。世間でいう前期高齢者である。この年齢になると体力の衰えとともに気力の衰えも感じる今日この頃である。しかし、今年の夏は、そんなことを吹き飛ばす〝出来事〟が日本全国で繰り広げられている。安全保障法制関連法案=戦争法案反対の運動だ。
私の人生の中で経験したことのない歴史的運動だ……。戦争体験者をはじめ、中高年、大学生、高校生までも、さらには子育てママたち、大学教授、弁護士等、まさに列島騒然のムーブメントが暑い夏を一層熱くしている。

きけわだつみのこえ
私は今、45年前の自分をふり返っている。私は1970年、文学を志して立命館大学に入学した。理由は学費が安かったからだ。確か授業料が年間9万6000円だったと思う。理由はそれだけではない。当時、全国ではめずらしい〝平和と民主主義〟を教学理念としてかかげていたことに惹かれたことにもある。この平和と民主主義を象徴するのが「わだつみ像」である。「わだつみ」とは、「海をつかさどる神」のことである。1949年全国の戦没学生の手記「きけ わだつみのこえ」が発行され、その収入を基金に、彫刻家本郷新氏によって〝戦没学生記念像〟=わだつみ像が作成された。しかし、像の設置を東京大学が拒否、その後1953年12月8日、立命館大学(末川博総長)が受け入れ、当時の広小路キャンパス(私が学んだ文学部があった)に設置することになったのである。東大が受け入れを拒否した背景には、日本を占領していた連合軍の意向があったといわれている。
私は、このわだつみ像の建立から受け入れまでの一連の経過でもわかるように、学徒出陣で無謀な侵略戦争に狩り出され戦死した諸先輩の無念を思うと胸が痛い。まさに学問は、平和と民主主義のためにあるものだと深く心に刻んだ。

議員としての原点
時が流れ45年が経った現在、平和と民主主義を学んだ貴重な学生時代にたくさんの〝宝物〟を自分の人生の糧にしてきた。それが、私が日本共産党員として生きることの選択だった。私の政治家としての原点である。
39歳で町議会議員になり、25年目の夏を迎えた。戦後70年の節目の年に改めて思う。私は、かつらぎ町の若者を殺し殺される戦場へ行かせるようにする戦争法案に、かつらぎ町に生まれ育った町民の代表のひとりとして、絶対に手を貸さないことを誓う。

姉の死
私は、4人姉弟の末っ子。ほんとうは、5人だった。私が生まれる以前に長女が亡くなっていた。妹を連れての買い物帰りに〝進駐軍〟のジープに轢かれて死んだそうだ。この話は、私が大人になって叔母からはじめて聞いた。この事実について両親は、生前私に一言もしゃべらなかった。さぞ無念だったと思う。
育代(合掌)